縫ノ池にある由来や伝説
@縫ノ池
 水堂から稲佐に行く途中の川津の里に「縫ノ池」と呼ばれている美しい池がある。池の中にはこんもりと
木でおおわれた島が浮かんでいて、古くから弁財天が祀られている。このために「弁天の池」と呼ばれて
いたが、須古城主平井経冶のおじ、縫殿助冶綱がこの地をおさめるようになってから「縫殿ノ池」あるいは
「縫ノ池」と呼ばれるようになった。
 
 
A厳島神社
 約800年前の平安時代、高倉天皇が病気に苦しんでいる時に、夢の中に那智山の観世音が現れ、須古の日輪山(水堂さん)の霊水を飲むようにお告げがあった。それを飲んだら病気はたちまち治り、父 後白河法皇は我が諸民快楽鎮護のために厳島の弁天をこの地に移すと言われ、金妙水が湧き出ているところがあり、この地を治めていた平重盛に命じて弁天様を祀る石の祠を建立させた。その後、平家が滅び、重盛公の趣意を受け継ぐものもなく年月は流れていった、その後の記録に天命6年(1786)建立の鳥居の扁額には「弁財天」とあるが、以前の鳥居(安永6年 1777)の扁額には「厳島神社」とあった。
広島県の厳島神社と同系統のものであり、祭神は市杵姫命で海辺の住民独特の祭神である。
神社の造りも、海辺の社のため神社の下まで水が入ってくるようになっている。以前は小魚が泳ぐ姿が見ら れたが、地下水汲み上げの影響で地盤沈下が発生し縫ノ池の周囲が沈下したため水が入ってこなくなった。
地区の人達はこの神社を「弁天様」、「弁財天」と呼び地区の守り神として信仰してきて、今もこの名称を 使うことが多い。
 
B放生池 
 厳島神社の境内にある、文化10年(1813)2月に建立された「放生池碑銘」には、この「縫ノ池」の放生池のいわれが詳しく記されており、長く放生池が続くように「永代放生池」の碑も縫ノ池が見渡せる場 所に建てられている。
放生とは、捕らえた虫や魚、動物などの生物を開放して自由にすることで、それによって殺生や肉食を戒め、あわれみの行動をすることで放生池は魚類を放す場所です。
縫ノ池の放生池の始まりは、およそ500年前、須古城主平井経冶のおじにあたる縫殿助冶綱がこの地をおさめるようになり、冶綱は神仏を尊ぶ心があつく、生きものをいつくしみ大事にしたことから、獲った魚や 鳥などを池に放すことを始めたと言う言伝えがあります。
  
 放生池碑銘 永代放生池の碑 
C轟の滝伝説
  縫ノ池の湧水は多良岳に降った雨が長年地下を通って流れて来ると思われ、嬉野市の西部にある轟の滝の看板には肥前風土記に書かれている「この滝の水は遠く白石へ流れていく」とある。
また、この滝の水の流れによって、滝の龍神さんが縫ノ池の弁天様に会いに来られたという恋物語の伝説もある。
    
D龍宮城伝説
 須古城主、平井経冶は狩りを好み、いつも縫ノ池に来てはカモを獲っていました。それを見ていた龍宮城の乙姫様は怒ってこらしめのために経冶の家来を池の中に沈めてしまいました。そこに来た縫殿助冶綱は城主と家来が生きものを獲るのを止めさせるからと乙姫様に詫びて生きものを大事にすることを誓いました。
それから、縫ノ池には水鳥や魚がいっぱい棲息するようになりました。
  
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